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遠州浜松「里の家」里山の暮らし

浜松市北区都田町の里山に魅せられて、森と田んぼと畑のある里山、築120年の古民家で暮らし、みやこだ自然学校をしています。

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メメントモリ

ペレットボイラーを入れているメロン農家へお邪魔した時のこと。メロンもみつばちが受粉してくれるので、はちの巣箱があった。たぶん、巣箱を移した跡に、スズメバチとみつばちの闘った痕跡があって、命がけで子どもを育てるため、両者の壮絶な姿が浮かんだ。それには見向きもしないで、とことこと歩く太ったネコもいて、不思議な印象を持ったまま、自分が何を感じたのか、言葉にするまで時間がかかった。

動物は日々、死んでいるのにその姿を見ることはほとんどない。スズメも朝になると家の周りでチッチッとよく鳴くが、その死骸を見たことはこれまで一度しかない。車に轢かれてしまったイタチ、ニホンリス、タヌキは見たことがあるけど、森の中で見たことはない。

数年前の夏、自然学校でプログラムでのこと。都田川で川遊びをしようと川原に降りたら、イノシシの子どもが横たわっていた。一時、関心を示した子どもたちだったが、すぐに川遊びに興じて普段通り。プログラムが終わった後、石を積み上げて墓石とし、手を合わせた。この時は不思議というより、かすかな違和感を覚えた。

「命を頂く」は別の言い方をすると、「生は死によって成り立つ」と言える。「命を頂く」というのはきれいな言い方のような気がして、僕はあまり使わない。命を奪うことをより鮮明に伝えるには、「生は死によって成り立つ」と言う方がよりベターだと感じている。「殺生」という言葉にもその意味が含まれているような気がする。

自分の生に関係する死に野生の命は反応する。関係しないものには、反応しない。それは当然のことだ。しかし、ひとは自分の生に関係しないものにも反応する。いたわりの感情がどこから沸き起こるのか、分からないが日々、失われていく命と生まれる命、生きている命、そして自分の命に思いを馳せることがひとがひとになるために、必要な意識なのではないかと思う。これがメメントモリ-死を意識すること-の本質ではないか、そう感じている。
メメントモリ
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[ 2011/03/29 00:33 ] 四季の風景 | TB(0) | CM(0)

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