遠州浜松「里の家」里山の暮らし

浜松市北区都田町の里山に魅せられて、森と田んぼと畑のある里山、築120年の古民家で暮らし、みやこだ自然学校をしています。
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不思議な感覚

何だろう、ここ数日、不思議な感覚がずっと残ってる。相変わらず、むしむしと暑く、天気予報は当てにならず、長雨の雨量のおかげでトマトは根っこの病気で枯れてしまったし、ハクビシンがまだ熟していないとうもろこしを丸かじりにしてしまったけれど。自然相手だからとか、思うようにならないないものとか、そんなありきたりの言葉ではなくて、この世界に自分という存在が溶け込んでいる感覚。在るがまま、ここの在るという感覚。ここの在り、為すように為すこと。そうやって自分の命を繋いでいくこと。まだ、うまく説明できないけれど、確かにこの胸の奥底に不思議な感覚が忘れがたい香りのように残っている。

トマトを枯らしてしまった菌類は宿主を失い、次にトマトをつくる時は高畝のマルチや木酢、雨囲いのせいで菌類は住処をなくすことになる。とうもろこしを食べたせいで人間の僕にネットを張らせる結果となってしまいハクビシンはもうとうもろこしを食べることができない。苗の大豆を食べてしまったアカネズミもしかり、熟したイチゴを食べたナメクジ、カボチャの芽を食べたウリハムシ、ニンジンやホウレンソウの根元を食べたネキリムシ。その生き物を殺す薬や道具はホームセンターに売られている。でもそれは、命として対等ではないと感じてしまう。知恵で追い払い増えないようにしたり、近付かないようにすることでバランスを保つのが命への敬意ではないかと思う。

そんな知恵比べをしてると、かれらの命もまた自分と同じ存在のように感じることがある。子を育てるハクビシンだったり、寝床をつくるアカネズミだったり、一夏の命で次の子孫を残そうとするウリハムシだったり、土の中で湿気と気温を待つ微生物だったり、僕もまた自然学校の親子のために土を耕している。これらの本質は同じのような気がする。同じ命の不思議を共有している。生まれて生きて、子を残し、死んでいく。正義とか理不尽とか罪とか判定とか、自然の中に規範はない。ヒトが自然と同じように規範が必要なくなった時、対峙することなくヒトは自然と溶け込み、ここの在ることが大切なのたど気が付くのかも知れない。

雲の切れ間から差し込む光のように地平線を照らしている何かがあって、僕はその場所へ辿りつきたいと願い、野菜や子ども、ハクビシン、アカネズミなどたくさんの命と一緒に歩いている。
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[ 2010/07/14 12:05 ] 四季の風景 | TB(0) | CM(0)