遠州浜松「里の家」里山の暮らし

浜松市北区都田町の里山に魅せられて、森と田んぼと畑のある里山、築120年の古民家で暮らし、みやこだ自然学校をしています。

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今、ここに在ること

時々、環境教育の仲間と僕が話していること。「自然大好き人間を増やすためにやってるのではなくて、循環型社会を担う、自然と暮らし自然に生きるセンスを持つ大人に育ってほしいからやっている」と。僕が自然が大好きかというと、一言で「うん、そうだよ」とは答えずらい。地震やハリケーン、噴火も自然。夏の暑さは時に人の命を奪い、花粉症にスギ花粉は辛い。結局、人間社会の枠の中から自然を捉えているような気がして、自然が好きかどうかを考えなくなった。極論を言えば、太陽の寿命が約50億年、それを待たなくても今から10億〜20億年後には太陽の温度が少しずつ上がり、生物は生きられない。好きかどうかの問題ではなくなる。その前に文明の寿命が尽きるかも知れないが・・。

いつだったか、「自然に善悪はない」と思ったことがあった。シャチがアシカの子どもを襲うことは悪ではない。それと同じように、マタギが熊を仕留めることも悪ではないと僕は思っている。野菜も命、動物も命。高等かどうか、動物か植物かで善悪を決めているような気がして、菜食も僕から見るとどこか奇妙に感じる。贅沢としての肉食には反対だが、イヌイット(エスキモー)に肉食を止めろというのは、生存権を奪うことになる。人間が定めた善悪は、文化や宗教、慣習などによって異なる。価値観が異なるのに、唯一無二の善悪を決めることは至難だ。人間社会は本当にややしい。

猿人が誕生したのが500万年前、現人類の誕生が15万年前、縄文時代から約1万年。これからの1万年後、15万年後、500万年後の地球と世界はどうなっているのだろう。トーマス・モアの「ユートピア」の中で描かれる理想社会に奴隷が出てくる。時代の限界性だ。僕もまた1万年後の世界の理想を描くことはできない。

自然の中にある法則はとてもシンプル。人は何故、存在するのかという哲学的な問いも、僕は在るから在る、種としての存在理由を問うことはしない。今、ここに在ることが一番大切だと感じている。たぶん、この哲学が自然も人もあるがままを受け入れることとつながるはずだ。
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[ 2009/02/25 23:12 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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