遠州浜松「里の家」里山の暮らし

浜松市北区都田町の里山に魅せられて、森と田んぼと畑のある里山、築120年の古民家で暮らし、みやこだ自然学校をしています。

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白川郷と里山

白川郷と里山
8月に静岡の有度山の生態系調査をした。有度山というより日本平の名の方が知られている地域だ。その関連もあって白川郷へ行ってきた。里山を考える時、その背景となっている農村社会を知る必要があったからだ。白川郷に合掌造りの茅葺き屋根が維持されいるのは、結という地域組織が存続していたからだが、陸の孤島のように高度経済成長から取り残されていたことが大きい。そうした場所には、古い慣習が残っていることがある。

雨が降ったり止んだりという天気だったので、散策している途中で見つけた喫茶店のオーナーと1時間ほど民俗的な話をした。雑談めいた話題から嫁は長男だけがもらうことができ、嫁は「手間」と呼ばれていたことを知った。また、白川郷で火薬の原料となる硝石の製造を行っていたことを初めて知った。耕地が限られた山間の白川郷で分家して田畑を広げることができなかったと想像できる。硝石の製造を行っていたとすれば、おそらく技術が漏れることを恐れて幕府・加賀藩は村の外へ出ることも許していなかったのだろう。血が濃くなることを防ぐために、村外から嫁をもらうこともあっただろう。嫁をもらえなかった長男以外はその家に残り農作業をしたという。長男以外は正式に結婚はできないが、気に入った相手へ夜ばいをするとい妻問婚の形態だった。子どもが生まれても男の側には子どもの扶養義務はなく、子どもは産んだ女の家で養い労働力となった。

焼畑について聞くと、婚姻関係にはないが好いた同士は月に一度、会うことができた。肥えていない山で焼き畑をして、雑穀やカブを作り自分のものとすることができたという。江戸時代には焼き畑は雑穀を生産するために、山間部では広く行われていたと思われるが、明治時代以降の農機具の発達によって生産性が上がったのかも知れない。山が燃えた後、わらびがたくさん出たという「わらび長者」という昔話を日本昔話で見たことがある。焼き畑は死と再生の儀式でもあったと僕は考えている。白川郷の周囲の山を見て、かつて好いた二人がぼろぼろの着物で焼き畑をしている姿をリアルに感じ取った。二十歳前の女の背中には乳飲み子がくすぶった煙りに泣いている。

山は現在よりももっと多様に使われていて、はげ山のような風景だったと思われる。焼き畑で山菜や雑穀をつくり、茅葺きのためにかや場があった。焼き畑で逃げ遅れて死んでしまった動物も食べただろう。養蚕のための桑畑がある。野良仕事に大切な牛や馬のための草地もあったはずだ。薪や炭にするコナラなどの雑木林と炭焼き小屋、建築のためのアカマツ、スギ、ヒノキの人工林があり、山を守るために尾根沿いの広葉樹は残された。

豪雪地帯の白川郷。厳しい生活ながらなんとか生きつないでこれたのは、山があったからだ。今でこそ、世界遺産に登録されて海外からも来るようになったが、昭和初期頃までは厳しい生活を強いられていたと思うと、複雑な心境になる。障害のある赤ん坊や飢饉に生まれた赤ん坊は見捨てられ、働けなくなった老婆は自ら姥捨て山へ身を捨てに行ったのだろう。

有度山は里山と呼ばれているが、現在の姿は高度成長以降に形成されたもので、江戸時代から明治にかけては白川郷と同様に、多様に使われていたはずだ。厳しい暮らしがつくり出した本当の里山の姿ではない。里山=雑木林や竹林というイメージは正確には間違っている。里山は言わば畑のような存在だったのだ。有度山をどのようにしていくのか、日本各地にある里山の名残りをどうしていくのか。ただ、先人のそうした苦労を知った上で取組みたいと思う。山が必要な生活をしていくことで、里山が里山になっていくことは地域で循環型社会をつくることでもある。たぶん、それが先人の苦労に報いることなのだと思う。
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[ 2008/08/30 21:06 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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