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遠州浜松「里の家」里山の暮らし

浜松市北区都田町の里山に魅せられて、森と田んぼと畑のある里山、築120年の古民家で暮らし、みやこだ自然学校をしています。

ぴっぴからの原稿依頼に応じて書いた“子育て観と思い”について(一部改編)

 誰でもそうだと思うのですが、子育て観は、自分がどんな子育てを受けてきたかによって、十人十色になるものです。僕の母親の子育ての幹は「感性と人権」でした。

 僕の最初の記憶はたぶん3歳の頃、道ばたに咲いていた露草の花を摘もうとした時、「その花はそこに咲いているからきれいなんだよ」と、母親の言葉。何気ない一言だったらしく、母親は覚えていないようですが・・。あるがままが美しいという感性、所有したいという欲が何となく良くない、そんな価値観も僕の中に芽生えさせる言葉でした。

 僕が小学生の頃、母親は生け花を始めて、僕も小さかったから一緒に教室へ連れていったのだと思います。桂古流という流派で、母親のノートを見て、天・地・背景とひとつの空間をつくりあげる生け花に僕は興味を持つようになりました。母親はそのうち、生け花にも興味が湧いたのかお茶をはじめました。茶室には生け花がつきものだからです。共に日本の伝統文化や伝統工芸と関係していて、後に柳田国男の民俗学や日本民芸運動の柳宗悦の伝統工芸、さらに民俗芸能へとつながる僕のバックグランドとなりました。民俗学、伝統工芸、民俗芸能はプログラムをつくる上でも大切な要素となっています。

 母親は絵画にも関心があって、小学生から中学にかけてよく美術館へ連れていってくれました。ロートレック、シャガール、ピカソ、ゴッホ、カンディンスキーとかいろろいろな本物美術に触れることができました。特に版画家、棟方志功の作品展は今でも強烈なインパクトをもって記憶に残っています。そんな影響もあって高校の時は美術部で油絵をよく描いていました。小さい時から作ることが大好きで、竹ひごの飛行機や紙を張り合わせて作る紙飛行機とか夢中になって作っていました。

 僕の描いた絵や作文、通知表まで母親は捨てずにとってありました。ガラクタでさえ、「時期が来れば自分で整理する」ということで、勝手に捨てることはしませんでした。僕がやりたいということは、ほとんどやらせてくれました。失敗から学ぶまで待ってくれました。母親には「自分のことは自分でする」というポリシーがあったため進路について、とやかく言うもことありませんでした。もちろん僕も自分の進路は誰にも相談することなく自分で決めました。勝つとか負けるとが嫌いで小学生の頃、町内の運動会に出なかったこともありますが、母親にみんなが出るんだから、出なさいと言われた記憶はありません。僕の人権・人格を尊重してくれていたのだと思います。そのせいか、自信があるとかないとか思ったことがありません。

 母親は根気と根性のある人で、夜寝る前は洋裁の内職をする明かりが襖から漏れ、朝起きると包丁の音がしている。お母さんはいつ寝ているの?と聞いたこともあります。とにかく甲斐甲斐しく働く姿を見て、僕も根気と根性を受け継いだつもりです。そうでなれば、自然学校を継続することも、畑づくりや田んぼづくりはできません。

 学生時代、教育学や心理学も学びました。また、子ども会少年団に参加し、指導員として活動もしました。この時、子ども集団の大切さ、集団の中で子どもが育つことを目の当たりにしました。また全国の建築系学生が集まってのシンポジウムなどに参加する中で、コンセプトをカタチにするプログラムデザインを学びました。当時の先輩たちの企画力は大変、高度なものでした。

 青年時代、北海道の積丹で有機農家で働き、クマゲラやタカ、キタキツネを見かける自然、満点の星空が自分の影をつくる星影、新鮮な野菜。自然と生命力ある野菜が生きる力を生み出し、自分の体と心が変わっていく体験をしました。

 都田・滝沢地域は、蛍やオオタカが舞う豊かな自然が残る地域です。たくさんの自分以外、人間以外の命と出会い、その生命の力、不思議を感じること。子どもでもできる仕事をし、お米と野菜を育て、生きるための糧をつくりみんなで食べる。森から薪を頂き、野から薬草を頂く。感性を育て、子どもの人権を守る。民俗学から子育てを学び、伝統工芸=作ること、民俗芸能=マツリ。子どもの発達を知る教育学や心理学。表現活動としてのアート。子どもの集団づくりと大人の集団づくり。ひとりではできないこともみんなの力を合わせればできる感覚。コンセプトをカタチにするプログラム。ひとがひととして育っていく環境は親が用意するしかありません。そして自分の哲学を持つことが子どもの哲学=生き方を育てます。僕はそんな場をつくりたいと思っています。
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[ 2008/04/07 01:59 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)