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遠州浜松「里の家」里山の暮らし

浜松市北区都田町の里山に魅せられて、森と田んぼと畑のある里山、築120年の古民家で暮らし、みやこだ自然学校をしています。

おいしい味覚と記憶

自分がしていることを、自分で再認識する機会は、あまりありません。
それは、自分の背中が見えないのと似ています。

味覚が記憶に残るのは、いくつか理由があるように思います。
五感は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚。
調理と食事は、この五感を総動員します。
五感に対する刺激が多いほど記憶に残ります。
かまどで薪が燃える音と炎、湯気が立上り、ご飯が炊けるいい香りがする・・
畑で収穫した野菜を1時間後には食べ、新鮮な栄養を身体が求める・・
これは、レストランでは体験できません。

食事は、命をつなぐ糧であるばかりでなく、幸福感や満足感をもたらします。
何より大切なのは、作った料理を、みんなで分けあって食べるという体験。
分ける、分かるという言葉は、
分けることで、分かること。
分け合うことは、分かり合うこと。

人類が誕生してから、ずっと体験してきたことは、奥深くにある遠い記憶を呼び覚ますことなのかも知れません。
里の家で食べた味覚が、子どもたちの記憶に一生、残るのだとしたら、何よりの喜びです。
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[ 2016/07/10 15:17 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

生命への愛しさ

自然学校をやるようになって、自分の中に芽生えた確かな感情は、生命への愛しさだ。たまらなく愛しさを感じるようになった。うっすらと感じたことはあって、明確ではなかった。

「一万年の旅路」(ネイティヴ・アメリカンの口承史/ポーラ アンダーウッド)の中で、ワナを仕掛けて獲物を取ることは可哀想なことだという記述がある。マタギは1年の間でクマが冬眠から目覚めてから一週間ほどしか狩りをしない。これには絶食状態にあるクマの肉体が浄化されていることと関係があるのだが、必ずしとめられるとは限らない。しかも、打ち取った時には神から「授かった」と叫ぶのである。殺生という言葉がある。仏教語の不殺生の反対の残酷なことという意味だ。牛や豚がと殺される現場を見れば、誰しも可哀想だ、殺生だと感じるに違いない。この感情が一万年以上も前の人類に芽生えていた。偽善とかではなく、ほ乳類に対して特に、そうした感情を抱くのは理屈ではないような気がする。

森の遊び場に猛禽にやられたカケスの散乱していた羽、水田の水路に密かに産みつけられていたヒキガエルの卵、遠い異国の北国から渡ってきたジョウビタキ、畑を耕している時に驚いて飛び出してきた冬眠中のツチガエル、山に響くウグイスの鳴き声。去年の梅雨時は田んぼに背中にいっぱいの卵を抱いたコオイムシを見つけ、ホタルの光りが川面に揺れ、夏には川原で命絶えていたイノシシのために石を積み、ハクビシンにとうもろしを食べられた。秋にはヘッドライトに逃げるノウサギやキツネ、護岸工事の影響かイタチが土手を歩いていた。秋の水窪で聞いた切ないメスを呼ぶ鳴き声、巣箱いっぱいにどんぐりを貯めていたニホンリス、モズのはやにえにされた枝先に刺されたバッタ、何かを捕まえて飛び去るノスリ。

彼等は生きている。ただひたすらに、子どもを残すことに必死に生き、そして別の命のために死んでいく。殺生は可哀想なことだと感じるのは、生命の生き様を知り、むやみに殺すことをためらうからだろう。圧倒的な自然の力の前には無力であることは人も他の生命も同じだ。その点で、僕の中には仲間意識がある。

もうそろそろ、高級牛のステーキを流すグルメ番組はやめてほしい。水と穀物を大量に消費する牛は家畜の中でも贅沢な食べ物だ。穀物をそのまま食糧とすれば、世界的にはかなりの飢餓が克服できる。生命への愛しさが可哀想なことをやめていく感情の動機になると思う。そして、たぶん感情の根本的、つまり愛情の原風景なのではないか。今日、なの花まつりで、菜の花畑に飛び交うミツバチをたくさん見て感じたことだった。
[ 2007/04/02 01:58 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

「奥様は魔女」と日本の大家族

日本には大家族で暮らすライフタイルがかつてあった。僕の祖母の時代の頃まではそうだったから、50年前くらいのこと。それが崩れていった大きな要因は、高度成長だった。都市部への人工流出で、農村部は過疎化しじいチャン、ばあチャン、かあチャンが支える「サンチャン農業」が生まれた。都市部では単身者が増え、そして結婚し核家族が生まれていった。

団塊の世代は1947年(昭和22年)から1951年(昭和26年)ごろまでに誕生したひとたち。一方、集団就職列車は1954年(昭和29年)に開始、1975年(昭和50年)までの21年間。地方から都市へ若者を運んだ。つまり、集団就職した団塊の世代も多いということが言える。

1959年(昭和34年)の皇太子結婚や、1964年(昭和39年)の東京オリンピックがテレビの普及を加速した。カラーテレビの普及率は1970年(昭和45年)には91.7%。地方から出てきた若者たちもまた働きカラーテレビを買っただろう。

その頃のテレビ番組で好きだったのは・・
宇宙家族ロビンソン
奥様は魔女
サンダーバード
大草原の小さな家
0011 ナポレオン・ソロ
わくぱくフリッパー

最近、それらの番組に共通するあることに気付いた。それは多くが核家族であるということ。「宇宙家族ロビンソン」はまあ、じいさん、ばあさんと宇宙旅行というのは無理がある設定だったかもしれない。「大草原の小さな家」も実話をもとにしているので仕方ない。しかし、「奥様は魔女」では典型的なアメリカの家族が描かれている。この番組はアメリカで1964年から1972年まで放映された長寿ドラマだった。

高度成長の頃、農業から工業へ経済が移行し、まちで働くことが当たり前のような風潮があったような気がする。しかし、よくよく考えてみれば家族が離ればなれに暮らすことが幸福につながるとは思えない。今も単身赴任を企業は要求する。家族はどうなるのだろう。

アメリカに追い付き追い越せと高度成長の道をひた走った日本。アメリカに対する憧れもかなり強い時期だった。ジーンズにハンバーガー、ロックやカントリー、カーボーイスタイル、ヒッピー、映画、そしてテレビドラマ。僕は海外の特にアメリカの海外ドラマが日本人に与えた影響が少なからず、意識を変えたのではないかと思っている。「奥様は魔女」の他にも「パパは何でも知っている」「うちのママは世界一」などがある。どうして、そうした海外ドラマを放映したのだろう。アメリカの家電製品に囲まれた生活は、消費欲をかきたてただろうし、そうしたモノのある生活が幸福だと思わせる宣伝効果を狙ったのではないかと思いたくなる。

最近、エコなライフスタイルが言われるようになってきた。家電製品は大きいものほど効率がいい。少人数の調理や暖房よりも大人数の方がエネルギーがひとり当たりに換算すれば効率がいい。そう、大家族はエコだ。大家族は日本の文化だ。とは言っても、これから大家族的なライフスタイルを確立するには、農業・林業を重視する政策がなければ無理だろう。地方を再建する根本は農業・林業しかない。農業・林業という職業の地位を高いものとする意識も求められるだろう。さて、困った問題だ。
[ 2007/03/24 21:02 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

もし、今、僕が中学生だったら将来、何になっていただろう?その1

考古学者/民俗学者

特に興味があるのは、モンゴロイドの軌跡だ。その頃の世界観や哲学を追求していたかもしれない。アフリカからヨーロッパ、アジアへ移動しアメリカ大陸へ渡ったグレート・ジャーニーの旅。その頃、語り継がれた物語が民話や伝説となって各地に残っている可能性がある。

白鳥伝説は隕石の落ちた場所や鉱山と関係していることが分かっている。調べてみると、愛知県津具村の白鳥神社の近くに津具鉱山があったり、盛岡の白鳥飛来地の上流に旧松尾鉱山があったり。白鳥の渡りが地磁気に関係しているからとの説もある。

ワタリガラスの伝説は世界各地に残っていて、日本にも北海道に渡ってくる。カムチャトカやシベリア、北極圏、北アメリカ大陸、北アフリカの砂漠にまで分布している。古事記の中で天照大神の使者として登場する。「誉れ高き先祖を持つカラス」はワタリガラスだと推定されている。中国では太陽に住む火の精、北欧神話においては主神オーディンの使いフギン(思考)とムニン(記憶)などなど。ヒマラヤのブータンの国鳥はワタリガラス。アーサー王が魔法でワタリガラスに変えられた、という伝説もあるみたい。神話の中で創世主として登場するワタリガラス。高い知能、渡りの習性、カラスとしては大型で目立つことなどが挙げられるが、これだけ共通点があるのだから、何かのつながり、例えばひとの移動があったのではと考えたくなる。

伝説だけでなく、失われた自然共生型の技術も興味深い。ペルーのシカン文化の遺跡付近では川の跡や水路やダム、水門が設けられ、農業が行われていた確証がある。エジプト・アラブ共和国のナイル川上流で進行中のトシュカ開発計画も古代農業と関係がある。1980年代に宇宙から「古代ナイル河川床」が発見されたことがきっかけ。かつて古代ナイル川の支流が流れ、緑の平原だったことが調査から分かった。「アスワン・ハイダムの建設で生まれた巨大人造湖・ナセル湖から、古代ナイルの河川床を利用して灌漑用水路を引き、トシュカ一帯を農地化する」という古代農業を現代に蘇らせる計画だ。川が流れた場所は、上流の養分を含み肥沃になっている。天竜川でも洪水のたびに流れを変えたが、同時に土を肥してくれていた。

昨日見たTBS「古代発掘ミステリ- 秘境アマゾン巨大文明 ~歴史が変わる第2弾!!~」は面白かった。アマゾンの氾濫原ロマ遺跡の近くに点在する四角の池は対になっていて、片方は水草タロペを浮かべプランクトンを繁殖させ、もう一方の養殖場へと導く。さらに幅も高さもある高畝の間に氾濫時の水がある時、タロペを繁殖させそれをコンポストとして利用する。実験では現在の農薬・肥料と同等の収量があったという。

そして日本でも飛鳥時代の遺跡から、水路と川と地下水をうまく利用した治水・利水システムの存在が分かっている。川の水位が下がると水圧の関係で地下水から水が湧く。逆に川の水位が上がると地下へと逃げていく。そうやって水位を調節していた。これは稲作にとって重要な調節機能だったと言える。

日本と言えば、縄文時代に関心がある。どんぐりを食べていたことは分かってる。しいの実はそのままでも食べられるが、その他のどんぐりは渋みがあってとても食べられない。

縄文時代の暮らしや生活がつい最近まであった、というと驚くかもしれない。岩手の中学校で教鞭を取りながら、地道にフィールド・ワークを行った畠山という人が書いた「縄文人の末裔たち」という本には、"ヒエや木の実の生活誌"という副題がつけられている。

縄文時代にいわゆる雑穀が食べられていたというのは、縄文時代前期(約5500年前)の遺構とされる青森県の三内丸山遺跡からひえやあわなどの種実が出土していることからも周知の事実だが、この本にはカノと呼ばれる焼き畑があったこと、そして何よりも木の実を工夫して食べていたことが古老からの聞き取り調査で明らかにされていく。つまり東北の山間部では50年前くらいまで縄文食の文化が残っていたということになる。

コナラ、ミズナラ、トチが主だったらしいが、米やひえ、大麦あたりと比べても十分なカロリーがある。しかしながら、アク抜きの加工行程は、乾燥にはじまり水につけたり、灰汁で煮たりと1ヶ月以上もの時間と手間がかかる。さらにこれらの木の実からデンプン粉もつくっていたらしい。冬の貯えのため屋根裏の貯蔵庫にはアク抜きされた木の実が、ぎっしりと保管されていたという。縄文時代は、今から約12,000年前~2,000年前の1万年間、日本に栄えた文化の中で一番長く続いた文化。つまり持続可能な社会だったと言える。

過去の古代農法や古代食が現代社会の課題である持続可能な社会のあり方を示唆している。考古学者、民俗学者はひょっとすると時代の先端なのでは、と思いたくなる。もちろん、今と昔では気候が違う。自然条件の違う現代では応用する必要があるが科学技術でカバーできるはずだ。
[ 2007/03/06 21:02 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

子どもたちのお父さんになること

2月最後の日曜日に今年度、最後の活動が終った。何とか畑で収穫できるようになり、森も遊び場らしくなってきて、ふぅ・・長かった。

建築学科を卒業した僕は都市計画コンサルタントに就職するも激務ためを辞めて、旅をした。その旅先の北海道で有機農業の農家にお世話になったのは26才。はじめて人間らしい自然な暮らしをして心も身体も健康になった。それから漠然と農家民宿みたいのをやりながら、自然体験ができるといいなと思ってた。今、46才だからかれこれ20年かかっていることになる。

農家だけではやっていけないと思い、物書きを目指して東京へ出た。昼間は環境コンサルタント、夜は文学教室へ通い、その後、名古屋に戻ってバイトのかたわら論文やら童話、小説、シナリオを手掛け公募ガイドを見ては応募して。しかし、話、小説、シナリオはせいぜい入選止まり。論文は優秀賞をとったもののこれでは食えない。

浜松の有機農業の農家でスタッフを募集していることを中部リサイクルのひとから情報を得て、浜松へ。しかし、来る前の条件と違っていたり、営利主義ぽいやり方がそりに合わず数カ月で辞めることに。

30才までは好きなことをやろうと思っていたので、次は陶芸をやりたかった。母親の障害者施設に陶芸窯があって、学生時代に時々お邪魔してやらせてもらっていた。浜松に設計を手伝ってくれるなら一日陶芸を好きにやっていいという人がいて、一年お世話になった。浜松を出ようかとも思っていたので、他にいい条件のところがあったら浜松にはいなかったかも知れない。

将来、どんな道へ進むのかは分からないけれど、自営で食って行くことは決めていたので、会計事務所へ。3年のつもりが5年もいることに。おかげで確定申告や会計、科目には強くなった。助成金の申請とかも抵抗なくできるのも、この時の経験があるからかも知れない。

結婚した後、会計事務所を辞めて自営の道を模索。田舎の一軒家もこの時、集中的に探すけれど結局、なかった。きっかけは忘れたけれど、コピーライターの仕事ができそうだと思い、広告代理店に飛び込み営業したところ、いけるんじゃない、ということでこの世界へ。しばらくは仕事の虫で徹夜も当たり前の状態で、借りていた畑もあまりできなくて。こうなるとストレスがたまってきてしまう・・。仕事のストレスではなく、自分の思う生活ができないことへのストレス。

ネットで検索している時に清里にあるキープ協会のインタープリターズキャンプを知る。2拍3日の環境教育指導者養成講座に参加して、探し求めていたものを見つけることができた。自然・環境・子どものキーワードがぴったりとはまった。2001年の5月の連休だった。同年、11月には環境教育プログラム体験の講座を静岡県の依託事業として行った。NPOの中にRETというチームをつくり、プログラムづくりできる人材の育成と地域でのプログラムの可能性を追求するため、2002年11月から積志地区で開放教室「土曜楽校」を開始。2005年3月までに41回のプログラムを実施した。2005年4月からフィールドを都田に移し、自然保育と自然学校を開始。一年で45回を開催。この他、伊豆や引佐でひとづくりの講師をしたり、ジャスコのエコクラブのサポーター、浜松市エコスクールなどをやってきた。今年度の自然学校は34回だったから、2001年の11月から数えると150回くらいやってきたことになる。

その一方で結婚した相手がどうも生き方が違うらしいと気付き、かなり悩んだ。結局、自分に嘘をついて生きることが自分にとっても相手にとっても、子どもたちにとっても良くないと決断して3年前に離婚。この別々に暮らすスタイルは思ったよりもしんどいことではなかった。しかし、相手が再婚するとなると途端に複雑になる。2005年の夏、精神的にかなりまいって、髄膜炎で入院するはめになった。

それから立ち直ったから、今年度の活動があった。まだまだ課題は多いが道は見えてきた。たぶん、こんな自然学校やらなの花クラブの役員、幼児サークル「まめっちょ」やエコクラブのサポート、ほとんどボランティアの「川や湖をきれいにする市民会議」や少年少女センターはままつのHP作成、都田・鷲沢・滝沢ふるさと夢mi隊のお月見コンサート、趣味の劇団からっかぜの活動などに興味を持つことなく仕事1本でやっていたら、離婚することもなく普通の家庭で普通の父親だったことだろう。

離婚してもこうした活動をして子どもに体験してもらうことと、仕事漬けで日曜日は疲れて寝ていることと、どちらが父親らしいのか。僕は前者を選んだ。離婚していなければ理解し合えないストレスで自然学校はできなかっただろうし、たぶん途中で辞めていたと思う。天命があるとすれば、「お前は離婚してその分、時間がある。だから、多くの子どもたちの父親として自然学校を豊かにしていけ」ということなのだろう。時々、漠然と「どうして、しんどいことをお前はやっているのか」と自問自答することがある。周りを見渡しても、40代の男性で社会的な活動に取り組んでいる人は少ない。多くは大抵、仕事か自分の趣味に一生懸命だ。自問自答の答えはいつもこうだ。「自分の命、自分の人生を全うしたいから」。すべての命は自分と他の命のためにある。生命力のある命は、他の命に生命力を与える。だから、自分の生命力が高まることは自分のためになるし、他の命のためにもなる。だから、自分の心と身体が健康であることは自分のためになるし、他の命のためにもなる。それが真理だと僕は思うから。

ひとりひとりができることを最大限に持続的に続ければ、この世界は光がさしてくるはず。自然学校に来ている子どもたちが、自分のためだけに人生と命を使うのではなく、人と自然のために生きるようになってほしいと願って、50才になるまでは続けたいと思う。僕の子どもの名前は、なつみと大樹。なつみは七海という意味。海を守るひとになって欲しいと名付けた。大樹の名前は北欧の世界樹の伝説、イグドラジル(ユグドラシル)九つの世界を支える根を持つ巨大な樹から。この世界が樹によって支えられているというのは、比喩的な意味で正しい。森を守るひとになって欲しいと名付けた。ふたりとも有名にならなくてもいい、金持ちにならなくてもいい。研究者でもカメラマンでも方法は問わない。信念を持って日本だけでなく、世界で活動してほしい。

こういうことを語るひとが少なくなったような・・暑苦しい?
[ 2007/02/28 22:25 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(2)

星野道夫

とてもよく本を読むひとがいる。そうかと言えば、活字に眠気を誘われるひともいる。僕は読まない方に入ると思う。読まないジャンルは小説。しかし、若い頃はよく読んでいた。

例えば、藤原審爾(ふじわらしんじ)。この作家の取り上げるテーマは幅広く、「死にたがる子」では教育を、「結婚の資格」では恋愛を、「熊鷹・青空の美しき狩人」では自然との関わりを取り上げている。自分で言うのは厚かましいが、自分と問題意識の持ち方が似ていると感じていた。童話作家では宮沢賢治の一連の作品、中でも「グスコーブドリの伝説」が好きだった。庄野英二の「星の牧場」、サン=テグジュペリの「星の王子さま」。SFではアイザック=アシモフ、アーサー=C=クラーク。

それが、めっきり読まなくなったのは、自分が小説や童話を書くようになってから。他のひとの作品を読んでしまうと文体が似てしまうような気がして、読まなくなった。ただ、例外がある。写真家の星野道夫の作品とポーラアンダーウッドの作品だ。

ふたりとも、今は亡くなっていて、会うことも新しい本に出会うことはない。今日は星野道夫の紹介。最初に読んだのは、「森と氷河と鯨 ワタリガラスの伝説を求めて」だった。知り合いが野生動物関係の調査をしていて、名前を聞かされたのがきっかけ。僕の知り合いでカメラが趣味のKさんと顔が良く似ているので、とても親近感を持った。この本は衝撃的だった。特にクリンギット族のワタリガラスの伝説の一説は、意味深い哲学を含んでいる。


今から話すことは、わたしたちにとって、とても大切な物語だ。
だから、しっかりと聞くのだ。
たましいのことを語るのを決してためらってはならない。
ずっと昔の話だ。
どのようにわたしたちがたましいを得たか。
ワタリガラスがこの世界に森をつくった時、生き物たちはまだたましいをもってはいなかった。
人々は森の中に座り、どうしていいのかわからなかった。
木は生長せず、動物たちも魚たちもじっと動くことはなかったのだ。
ワタリガラスが浜辺を歩いていると海の中から大きな火の玉が上がってきた。
ワタリガラスはじっと見つめていた。
すると一人の若者が浜辺の向こうからやって来た。
彼の嘴は素晴らしく長く、それは一羽のタカだった。
タカは実に速く飛ぶ。
「力を貸してくれ」
通り過ぎてゆくタカにワタリガラスは聞いた。
あの火の玉が消えぬうちにその炎を手に入れなければならなかった。
「力を貸してくれ」
三度目にワタリガラスが聞いた時、タカはやっと振り向いた。
「何をしたらいいの」
「あの炎をとってきて欲しいのだ」
「どうやって?」
ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくると、それをタカの自慢の嘴に結びつけた。
「あの火の玉に近づいたなら、頭を傾けて、枝の先を炎の中に突っ込むのだ」
若者は地上を離れ、ワタリガラスに言われた通りに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続けた。
炎が嘴を焼き、すでに顔まで迫っていて、若者はその熱さに泣き叫んでいたのだ。
ワタリガラスは言った。
「人々のために苦しむのだ。この世を救うために炎を持ち帰るのだ」
やがて若者の顔は炎に包まれ始めたが、ついに戻ってくると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れた。
その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちはたましいを得て動きだし、森の木々も伸びていった。
それがわたしがおまえたちに残したい物語だ。
木も、岩も、風も、あらゆるものがたましいをもってわたしたちを見つめている。
そのことを忘れるな。
これからの時代が大きく変わってゆくだろう。
だが、森だけは守ってゆかなければならない。
森はわたしたちにあらゆることを教えてくれるからだ。
わたしがこの世を去る日がもうすぐやって来る、だからしっかり聞いておくのだ。
これはわたしたちにとってとても大切な物語なのだから。

(クリンギットインディアンの古老、オースティン・ハモンドが1989年、死ぬ数日前に、クリンギット族の物語を伝承してゆくボブをはじめとする何人かの若者たちに託した神話だった。この古老の最後の声を、ボブはテープレコーダーに記録したのだ。--本書より)

クリンギット族の中でワタリガラスは創造主。ワタリガラスの伝説はベーリング海峡を挟んで、北米からシベリア大陸にかけて残っている。アラスカからシベリアへ渡ろうと計画していた星野道夫は熊に襲われて亡くなる。

このワタリガラスの伝説、何を語っているのだろう、と時々考える。もともとひとつの大きな火の玉から魂が与えられていること、魂を分け合っているとも言える。その魂をタカが運ぶ。タカはよく英知の象徴として登場する。世界を高いところから俯瞰し、物事を大局的に捉えることができる存在だからだ。どこに道が続いていのか、どこへ進むべきか。知恵あるものが魂を運ぶがそれはとても過酷さがともなう。

海の中から大きな火の玉、森の中の一本の枝に炎を持ち帰る、森だけは守ってゆかなければならない、森はわたしたちにあらゆることを教えてくれる・・

古くから語り継がれている伝説や民話は、登場人物や行為が比喩になっている。何の例えなのか、何を象徴しているのか。生きるために必要な知恵が隠されている物語を僕が咀嚼するには、まだまだ時間と経験が必要のようだ。


星野道夫公式サイト
http://www.michio-hoshino.com/

●星野道夫イベント情報 星野道夫MemorialYear(山梨県・清里)
山梨県・清里、(財)キープ協会が運営する八ヶ岳自然ふれあいセンターにおきまして「星野道夫MemorialYear」が開催中です。清里は星野道夫が学生時代に牧場でアルバイトをし、1996年5月には八ヶ岳自然ふれあいセンターで講演をしたこともあるゆかりのある土地です。2007年3月まで星野道夫写真展(時期未定)をはじめ、自然やアラスカにかかわる様々なイベントを開催予定です。

「私のブックマーク」星野道夫の本をテーマとした読書茶話会
期日:実施日時と、テーマとする本
 ・1月29日(月)  19:30~21:30  「森と氷河と鯨」
 ・2月21日(水)  19:30~21:30  「ノーザンライツ」
 ・3月24or25日  時間未定     「星野道夫と見た風景」
内容:星野道夫の本を読みながら、心に響いたそのページに栞をはさみ込んでおいて、集まったメンバーでお茶を飲みながら、その感想を話し合う読書茶話会です。
参加費:無料 (要予約)

●星野道夫テレビ番組情報 NHK総合テレビ「アラスカ はるかなる大地との対話」 再放送
2006年の7月にNHK衛星ハイビジョンで放送された番組を編集しなおし、新たに星野道夫の昔の写真や星野直子のインタビュー等を少しずつ加え、より凝縮された内容となっています。
番組名:アラスカ はるかなる大地との対話
再放送日時:NHK総合テレビ 2007年2月24日(土) 15時05分~15時59分(54分)
[ 2007/02/22 23:30 ] 生き方と命 | TB(2) | CM(0)

悩み

 子どもたちと接していると、時々、自分の対応がベストだったのかどうか迷うことがある。自己肯定感が大事だからほめるようにするのがいいとか、自信がつくようにとか。世間ではそんな風潮がある。小学生にあがる前から、僕はひとと違うと感じていた。僕は自信があるとかないとか、自分は自分でいいんだとか考えたことがない。自信があるからやるわけではなく、やりたいから。自分は自分でしかないし、自己否定する感覚もない。僕はそれが自然だと思っていたがどうも世間は違うらしいと、三十も過ぎた頃に知った。

 絵が好きだった母親は、保育園の頃の絵を「あなたが描いたものだから、お母さんは捨てられない」と言って、捨てることはなかった。通信簿は「あなたが大きくなって、子どもができた時にお父さんは勉強ができた、なんて言わないように」という理由ですべて残してあった。使い物にならないラジオの部品などが入った僕のガラクタさえも「要らなくなった時に捨てればいい」と勝手に捨ててしまうことはなかった。さすがにガラクタはいつの間にか捨ててしまったが、子どもの頃の絵や通信簿は今もとってある。

 母親のしてきたことは、一言で言うと子どもの人権を尊重するということ。もうひとつ大切なことを母親は伝えていた。自分の権利のために他者の権利を侵害していならないということ。立ち返る原点は、こうした「子どもの権利」だ。1989年、学生時代に「子どもの権利条約」が国連で採択され、日本は遅れて1994年に批准された。ユネスコサークルにも所属していたので、「子どもの権利条約」についてみんなで学習し、目からうろこ状態だった。と同時に母親の子育ても、「子どもの権利条約」に通じるものがあると分かり、感謝したものだった。


「子どもの権利条約」
子どもの最善の利益(第3条)
-子どもに関わる全ての活動において子どもたちの最善の利益が第一に尊重されなければならないことを定める

 子どもをめぐる環境はここ数十年で様変わりした。子どもの精神や心にとって有害だと思われるものが随分と増えた。ゲームやマンガには、暴力シーンが続き、登場する女の子は露出度が高い。中には性的描写のあるものもある。バラエティ番組では一獲千金的なクイズもあれば、いじめにも似たお笑いタレントの「挑戦」もある。テンポの早い音楽に、栄養が偏るファースト・フード。落ち着きのない子どもや手加減を知らないケンカや事件が増えるのは当たり前だと思う。子どもたちの最善の利益はこの日本の社会の中に今、どこにあるのだろう。

生存と発達の権利(第6条)
-子どもたちの生存と発達の権利を最優先するだけでなく、子どもの性格・才能・能力を含むすべての側面において最大限の可能性まで発達する権利をも優先させる

 子ども同士のいじめ、親からの虐待、言葉の暴力。それによって生存が危ぶまれている現状がある。子どもの可能性も極端に狭められている。メディアの影響をもろに受けて、野球のスター選手が登場すれば野球が流行り、サッカーも同じ。勉強のために塾へ行かせ、国際時代だからと英会話を習わせる。中にはそれが好きだという子どももいるだろう。しかし、子どもはもっと遊びたいのだ。それが子どもの成長にとって必要不可欠な条件だということを多くの親は自覚していないように見える。子どもの遊びよりも、学習塾の方が価値があるように錯角している。学習塾よりも何十倍も遊びの方が大切だ。何かができることと、何かをやりたいと情熱を持つこととは違う。タレントの講演をまとめた分かりやすい子育ての本ではなく、きちんとした保育書なり発達心理の本を一冊読んでほしい。

子どもの参加(第12条)
-子どもに関するどのような事柄においても子どもの意見が聞かれるべきであり、子どもたちの意見は年齢と成熟の度合いに従って然るべき配慮がなされるべきであると定める

 子どもの意見を聞くということは、意志決定に子どもが参加するということであって、子どもの言いなりになるということではない。4歳くらいから論理的な思考ができるようになってくる。説明すれば分かるようになり、納得もする。


 子どもたちがいずれ自分の道を見つけ、幸福な人生を歩むためには、生きる力が必要だ。やりたいと思ったことを実行できるバイタリティ。他者やメディア、流行がどうであれ、自分の心の声に耳を澄ませて歩んでほしい。

 ほめるようにするのがいいとか、自信がつくようにというのはどこか流行のような感触があって、僕は違和感を感じてる。ほめられるとうれしくて満足する、というのは本当だろうか。ほめられたいから頑張る、という構図だけは避けたい。自信がつくとチャレンジできるようになるというのは本当だろうか。僕はほめられてもうれしいとはあまり感じないし、満足もしない。他者の評価ではなく、自分がやりきれたかどうか自分で判断しているからだ。僕がいろいろなことをするのは、自信がついたからではなく、心からやりたいと強く思うからだ。

 僕がほしいと思うのは共感と共有だ。子どもたちと体験を共有することで、楽しさや達成感を共感しあうことができる。畑に炭を砕いてまいたり、じゃがいもの種いもを植える。ひとりでやっていたら、時間もかかる。共感しあうひともいなければ、正直、しんどい。子どもたちとの間に「終わったね、できたね~」という共感が広がるのが僕はうれしいと感じる。包丁の苦手だった子どもが回数を重ねる度に上手になっていけば、「上手になったね~」と自然と言葉がでる。その子どもはほめられたいから包丁を使っていたのではない。包丁を上手に使いたいから、やっていたのだ。

ADHDのことを調べていたら、配慮として
・「叱る、注意をする」よりも「認め、励ます」
・「できないこと」ではなく「できること」「すきなこと」「やりたいこと」をみつける。
・集団のルールの理解、セルフコントロールの力を育てるためのとりくみ
・理解をうながすための他児への指導と他児からの援助の働きかけ
というようなことが書いてあった。これは、ADHDに限らず子どもたちへの対応として一般的な「処方」だと受け止めた。

 僕ははたと困ってしまった。自然の中で遊ぶこと、集団の中で遊ぶことにはルールがあるからだ。叱る場面も当然ある。火のついた棒を持ってうろうろしていたら注意しなければならない。何度、注意しても分からない子どもには、誰かが火傷をする前にきつく叱ってでも理解してもらわないといけない。

 子どもの身体能力や脳の発達段階からして、できないことがある。できる仕事を用意はしておくが、無理なことをやりたがる子どもはいる。できないことをできると言い張る子どもには体験させて、まだできないことを知ってもらう必要がある。手加減をしてしまうと、できると思い込み、大人の目の届かないところで事故につながることも想定されるからだ。実際、4歳の子どもがひとりでナタで使い手を打つことがあった。大人の道具を勝手に使ってしまう感覚もよく分からないのだが・・

 ルールについてもきちんと守れない子どもや感情のコントロールが苦手が子どももいる。地域の子ども集団が崩壊している現状では、無理もない話だ。一言で言えば、わがままな子どもには個別的な関係が必要なんだろうと感じている。目立つことで注意をひき、関わりを持とうとする。根本的には気持ちがつながっているという安心感が必要なのだと思う。

 というように、結局、どんな配慮をすればいいのか、答えは霧の中だ。模索していくしかない。子どものとりまく環境を考えると気が重くなる。有害な膨大なメディアと情報の中に敏感な子どもの裸の心がさらされている。それに対して、たったひとりで立ち向かう・・そんな気分にさせられる。「子どもの権利条約」をいつも傍らに、非力ながらも続けていくしかない。
[ 2007/02/15 00:36 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

不作・豊作

菜の花クラブ総会がありました。自然学校が終わってからかけつけました。今年は菜種の豊作で昨年の4倍くらいらしい。自然相手って、こういうことなんだよね。鉄や石油は備蓄もあるから、コンスタントに生産できるから、工業製品に不作・豊作なんてない。(あったらおもしろいけれど・・失礼)安定していることが当たり前みたいになって、それが簡単・便利な社会の基盤となっている。それが災害などで崩れると、簡単に“生活”は崩壊してしまう。なんて、ぜい弱なシステムなんだろう。

多様な食べ物を確保することで、縄文時代の人々は安定した暮らしを築いていた。多様な自然があったからできたことなんだけど、多様な自然の恵みを頂く生活の方が結局、安定しているのかも知れない。日々の生活でちょっと不便になることを選ぶか、突然に崩れてしまう生活を選ぶのか・・。なんて、極端に二者択一を考えてしまうのでした。

遠州地域は海、湖、川があって、平野に台地、森があって。多様な環境がある。やっぱり、いい場所だと思うんだよね。
[ 2006/07/23 22:52 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

心の底に流れる川

澄み切ったわき水のようにとうとうと流れている川。淀んで茶色に汚れた川もある。それどころか、乾ききってしまい砂漠のように潤いを感じない川もある。細いけれど、まっすぐに流れるもある。たいていの人の川はつながっていて、大きな川へと合流していき、やがて海へと辿り着く。でも、途中で川の流れがとまってしまい、砂に水が埋もれてしまう川もある。

心の底には川が流れていて、その姿はひとそれぞれに風景が違うと、感じることがある。高い山脈を抱える砂漠では、突然のわき水によって湖を出現させる。そんなふうに、川の流れが見えなくなってしまっても、その地中深くには、水が流れていて何十年とかかって汚れがろ過されて、純粋な水に生まれ変わる。そんな風景を、今日、想像していた。
[ 2006/07/23 01:37 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)

トンボと遊ぶ子ども

「わらべうたで子育て応用編」(阿部ヤヱ 福音館書店)という本の中で、半分羽を取ったトンボを三十匹ぐらい箱に入れて「おばあさん、ほら、りっぱだよ」と婆様に見せると「アゲツ(とんぼ)というものは羽っこがあって、空を飛んで生きるものなんだ。羽を取られたら殺されたも同じだ」って怒られる。
 今度は糸をトンボのしっぽにつけて飛ばしてあそぶ。「飛んだ飛んだ」と喜んでいると、「トンボは自由に飛んでこそ飛んだと言える。それがトンボの生きるということなんだ」って。
 今度は草の茎をトンボのお尻さして放して遊んでいると、「しっぽに草の茎さされて生きたと言えるか」と怒られる。

 そんな風にして、命の尊さを伝えていた・・とあります。こんな風に、伝えられたらいいなと思った。しかし・・今、そんなふうにトンボと遊ぶ子どもは少ないじゃん。子どもたちが生き物を捕まえる衝動を持っているのは、本能だよね。でも、そういう自然が身近にないし、楽に遊べるモノがいっぱいある。
 この「子育て」は、子どもが自然の中で遊ぶことが前提になっているから、子どもが自然の中で遊ぶことがなれば、命の尊さを伝えることができない、とも言える。
 最近、こんなふうに考えるようになった。子どもたちが捕まえて、不慮の事故で亡くなった生き物たちは生きているものは必ず死ぬと教えてくれる。罪の意識も生まれる。それを伝えていこうって。まず、自然の中で遊ぶ場をつくること。それがなければ、自然学校ははじまらない。当たり前のことだけど、その大切さを再認識したのでした。

 食べることも一緒。日本人の食べ残しはひとり当り1年間で171kgらしい。ごはん一杯を150gとして、おかずを250gとすると、400gだから・・171000g/400g=427.5食分?!500gとしても342食分じゃん。んん・・ちょっとひどいね~。4食のうち、3食分しか食べていないことなる。みんなきっちり食べれば、1/4は輸入しなくてもいい勘定。食べ物は命だから、これじゃ、成仏できません。畑で野菜たちが生きていることを伝えなきゃ。
[ 2006/07/18 00:08 ] 生き方と命 | TB(0) | CM(0)